37歳の若さで市長となり、数年後に破綻一歩手前の財政健全化団体からの脱出を遂げた千代松市長。その自治体経営力と総務省との訴訟でも一歩も引かないリーダーシップに全国の注目が集まっている。
東京五輪・パラリンピックで印象に残ったことは何でしょうか?
まずは、世間をお騒がせした話題から入らねばいけません。ホストタウンとして受け入れたウガンダ選手団9名のうち2名が新型コロナウイルスの検査で陽性となり、重量挙げの男性選手が行方不明になった出来事です。
入国時の検査で1人に陽性反応が出た時には、まさかと思いました。陰性証明が出ていたからです。残り8人は当市に移動後、濃厚接触者に特定されました。二週間の隔離生活中にPCR検査をしたところ、2日後にまた1人の陽性者が出てしまった。出迎えでバスに同乗した担当職員3名も濃厚接触者となり自宅待機です。本当に困りました。
ようやく練習できるようになったのは、それから2週間後です。残念なのはホストタウンとして市民交流を果たせなかったこと。なんとか最終日には子どもたちの応援メッセージをプレゼントし、ホテルから出発するバスに向かって職員と近所の子どもたちがウガンダの国旗を振り「がんばって!」と声援を送りました。車窓から手を振る選手たちが印象に残っています。
重量挙げの選手が行方不明になったのは、泉佐野市を出発する4日前です。報道によると「生活が厳しいから国には戻らない。日本で仕事をしたい」と書き置きをしていました。実はその選手、来日後に世界ランキングが下がり五輪出場資格を喪失したため、コーチらと成田空港から帰国する予定だったのです。結局三重県四日市市で保護され、本人の意思で帰国しました。
開会式の直前までそうした騒動に見舞われたこともあり、ウガンダの選手団が入場行進する姿を見た時には、目頭が熱くなりました。競技抜きで、彼らが歩いている姿だけで泣きそうになりました。
パラリンピック女子50m背泳ぎS2と100m背泳ぎS2で、2つの銀メダルを獲得した山田美幸選手(14歳)の泳ぎにも感動しました。生まれつき両腕がない体で、障害のある足を使ってグイグイ進む。計り知れない努力を重ねたに違いありません。
テレビインタビューで、座右の銘が「無欲は怠惰の基である」と語るのを聞き、ハッとなりました。渋沢栄一の言葉で、「欲が無いのは現状に課題を見出さず、ただ受け入れている状態だ」を意味します。パリ大会での金メダルを目指し、努力を怠らない強い意志を感じたのです。私自身、「まちづくりや自治体経営で現状に満足してはいけない。次はこうしたいという意欲を持たねば」と思っていました。より良い社会を実現したいという社会的欲求に他なりません。図らずも14歳メダリストの言葉に共感し、襟を正した次第です。
すでに千代松市長ご自身が、「財政健全化団体」からの脱却では相当な努力をされています。当時の財政状況と改善に向けた改革について、お聞かせください。
2011年に市長に就任するまでの11年間、私は市議会議員を務めていました。バブル経済が崩壊し、景気低迷に喘いでいた頃です。市がいろいろな事業を縮小したため、サービスは他の自治体と比べて低い水準になっていました。駅前でビラ配りをしていると、「生活が苦しい」という声が多数寄せられます。「市民負担を求めることなく財政の健全化をしなければ」という強い思いが募り、議会ではさまざまな改革案を出しました。しかし、一議員には限界があります。そこで自らが先頭に立つために市長選に立候補したのです。公約の柱は大胆な人件費削減で「市長給与40%カット、副市長などの給与30%カットや、特別職の退職金制度の廃止、一般職員の給与20%カット」などを掲げました。
財政健全化団体には、財政健全化計画の策定が義務付けられます。当市では、各種事業の見直しや遊休財産の売却、市立病院の地方独立行政法人化、空港連絡橋利用税の導入、企業誘致の推進、公共施設の統廃合やネーミングライツ、サービスの民間委託、市税の徴収率アップ、滞納債権の縮減などに取り組むとともに、給与カットや広域行政・退職不補充による職員数の削減による人件費の圧縮に努めました。(職員の給与は8~13%削減に緩和)いずれも子育てや教育をはじめとする住民や地域の利益を損なわないようにしています。
方針を支えてくれた職員とともに政治生命をかけて取り組んだ結果、当初は財政健全化団体の指定解除までに19年間、2027年度までかかる想定だったのが、2013(平成25)年度決算をもって達成することができました。
財政健全化に向けた税外収入の切り札が「ふるさと納税」であり、泉佐野市は全国1位の寄付金を集めました。ところが、国は制度から市を除外してしまう。この措置を不当として国を訴えた結果、最高裁は市の訴えを認め、国に除外取り消しを命じていました。
背景には非常に厳しい財政状況がありました。苦境を打破するため、制度の範囲内で創意工夫しながら寄附金を増やしたと自負しています。課題は全国的に人気の高い特産物が少なかったことで、2008年の制度創設時の返礼品は「泉州タオル」一品のみでした。そこで「ふるさと納税チーム」を発足し、地道な取り組みとアイデアを積み重ねていったのです。
まずは複数から選択できる仕組みを導入し、13品まで返礼品を増やしました。2013年にはさらに返礼品を強化するとともに、「ふるさとチョイス」というポータルサイトを運営する企業と、成果報酬最大20%の委託契約を締結。また、地元航空会社ピーチアビエーションの航空券と交換できるポイントも返礼品に加えました。
2015年には弱点だったフルーツ類を強化するために、栃木県佐野市と特産品に特化した協定を結び、「とちおとめ」をラインナップしています。互いの特産品を地元の特産品と同様の扱いとする協定は、その後47自治体にまで広がりました。さらに他の自治体と連携して米、肉、カニなど一千品を超える返礼品を揃え、2017年度には135.3億円を達成。「ふるさと納税日本一」になったのです。
また翌年の2018年度の寄付額が全国寄付金総額の約10%に相当したことから、「やりすぎ」と非難されることになります。総務省は返礼品競争の激化を抑えるため、返礼品は寄付額の3割以下の地場産品にするよう、通達を送ってきました。法的拘束力がないにもかかわらず。
優位な立場を背景に、紙一枚で自治体の努力を踏みにじるやり方に憤りを覚えました。国と地方は対等なはずです。ここで踏ん張らなければ、「地方自治」や「地方分権」の危機につながると思い、徹底的に戦う覚悟を決めました。
一方の総務省は改正地方税法を導入し、国が指定した自治体だけが税制上の優遇を受け続けられるようにしてしまった。理不尽なのは、当市が返礼品を根拠に対象自治体から除外されたことです。法の遡及適用※は禁止されています。法規制前のことを判断材料にすることは認められません。
新しい「ふるさと納税」では、返礼品は寄付金額の3割以下の地場産品に限定されましたが、どのように対応しているのでしょうか。
当市は制度に復帰後、ルール順守に努めています。現在は地場産品の泉州タオルや水ナスなど約800品目を用意していますが、それに加えてふるさと納税の寄付金を原資として企業に補助金を出し、返礼品となる新商品やサービスの育成を支援する事業を昨年から始めました。返礼品が地場産品に限定されると自治体間に格差が生まれてしまう。それならば地場産品を創ってしまおうという発想です。
職員のモチベーションはどのように維持しているのでしょうか?
組織には、前向きで頑張る職員とそうではない職員がいます。後者のモチベーションをいかに上げるかが、組織の共通課題ではないでしょうか。大きな要因は評価だと考え、能力給を導入することにしました。そして基準を絶対評価から相対評価にする「職員基本条例」を制定したのです。それまでの人事評価は勤務実績で評価する絶対評価で、しかも自己申告制でした。結果、殆どの職員が一番上位の区分に入っていたのです。
相対評価では第一~第五区分の五段階とし、それぞれ0~5%、20~25%、65%、5~10%、0~5%の職員を割当てました。そして、評価結果を給与や管理職手当等に適正に反映させるようにしました。評価する側には公正かつ厳正な規定を設け、研修を義務付けました。さらに半年毎に部長~係員の5階級から1名ずつ計5名を選んで表彰するとともに、10万円(現在は地域ポイント10万円分)を贈る制度も導入しました。
リーダーの役割は最終判断をしてその責任を取ることです。一方、行政の業務はあまりに多く、すべてに目を通すことは不可能です。ボトムアップで裁量をできるだけ担当者に委ね、重要施策の陣頭指揮を執るようにしています。
お話を聞いて、千代松市長は変革期にある泉佐野市が必要としていたリーダーであることがよくわかりました。地方創生が叫ばれる中、多くの自治体リーダーにとっても参考になるのではないでしょうか。
千代松 大耕(ちよまつ ひろやす)氏
大阪府泉佐野市長
1973年 泉佐野市生まれ
1996年 同志社大学経済学部 卒業
1998年 米国Lincoln University 大学院 修了
2003年 大阪府立大学大学院 修了
2005年 和歌山大学大学院 修了
1999年 株式会社堀場製作所 入社
(エンジン計測海外営業部 配属)
2000年 泉佐野市議会議員 初当選
(以降4期連続当選)
2004年 泉佐野市議会 第61代副議長 就任
2006年 泉佐野市監査委員(議会選出) 就任
2008年 泉佐野市議会 第65代議長 就任
2011年 泉佐野市長 就任(現在3期目)
2021年 全国青年市長会 第33代会長就任