「世界遺産」への登録推進を含む将来構想の実現には、地域住民とのパートナーシップが欠かせない。しかし、過去の確執があり簡単ではなかった。中尾会長は「地域から理解を得る道のりは厳しいものでした」と回顧する。
「1951~1953年にかけての『らい予防法』改正反対運動では、地元虫明地域に『らい病は治る、理解してほしい』と一戸ずつチラシを配って歩いたものです。でも、目の前で破られたり、投げつけられたりしました。でもそれは仕方ないことです。怖い病気だと噂が流されたし、彼らから強制的に土地を没収して療養所を建てたのですから。」
屋会長にも、地域の人に迷惑をかけたという思いがある。「当時はカキの養殖にしても、風評被害のために虫明産として出荷できませんでした。」問題解決に向け、屋会長は「とことん理解し合う努力が必要」と力を込める。「子どもたちは純粋で新しい情報をどんどん受け入れてくれます。一方で70代以上の世代は簡単ではありません。大人たちが子どもたちに正しい認識を伝えれば、ハンセン病問題は解決するし将来構想も進展するはずです。」
過去、子どもの純粋な気持ちが地域との協力を大きく動かした例がある。本土と長島を結ぶ「邑久長島大橋」架橋に向けた世論の喚起だ。それまで、両岸は幅30メートル程の海峡に隔てられており、往来の手段は船舶のみだった。災害や緊急時に車両は使えない。泳いで脱走しようとして、潮の流れで溺死した人もいたという。何よりもそこは療養所を社会から隔てる差別象徴の場所だった。その海峡に橋をかけようと、弾みがついたのが地元裳掛中学校の女生徒が書いた一編の詩だ。1969年に岡山県の児童生徒詩文集に取り上げられ話題になった。
その後、1971年に両園で架橋をめざす委員会を発足し運動が本格化。1988年5月、約20年を費やし念願の橋が完成した。地域交流や入所者の社会復帰を後押ししたことで「人間回復の橋」と呼ばれている。
同年、本土と結ばれたことで、両園は地域交流に向けた花火大会を開催することになった。第一回大会時、初めて赤ちゃん連れの家族が来援した時のことだ。「このくらいの年齢の子どもが迷子になっています」と迷子の園内放送が流れた。それを聞いて喜んだのが入所者だったと中尾会長は振り返る。「『子どもが来ているんだ』と、違った意味で自分たちが解放されたことを感じたのです。」
今は乳飲み子から高齢者まで、2千5百人程の人々が花火大会に訪れる。「準備は大変ですが、地域住民と交流できるひと時なので張り切って協力しています。」以前は健常者との席を分けていたが、今は張り紙をしておいても外部の人が占領してしまうことがあるという。「普通の地域社会になってきたということです。」
岡山県の交流事業
ハンセン病問題の解決に向けた普及啓発には、岡山県も補助事業として取組んでいる。柱となるのは、両自治会による交流事業と県内市町村や学校、町内会による交流事業への補助金だ。
岡山県保健福祉部健康推進課感染症対策班の日笠班長によると、2018年には、療養所との交流事業(千人が参加)のほか、人権学習の一環として小中学校10校が実施した「語り部」講演会(786人が参加)を助成した。現在の語り部は、両園の会長を含む5名。子どもたちに同じ過ちを繰り返して欲しくないとの思いから、「ハンセン病問題の正しい知識を身につけ、自ら判断してもらうこと」を訴えている。中学1年生の参加者からは、「資料で見るより、やはり実際に体験した方の話を聴いた方がよく理解できました。自分も友達も大切にして、近い将来、みんなが平等に生活できる社会を、現代に生きる私達が創りあげていくように、頑張ろうと思いました。」との感想が寄せられている。