1873年(明治6年)、ノルウェーの医師ハンセン氏がこの病気が「らい菌」の感染によって生じることを発見して以降、らい病患者を社会から隔離する政策が全世界的に広がった。日本も例外ではなく、政府は公立の療養所を全国5か所に設置し、その後、国立療養所を全国13か所に設置していった。その後、らい病という呼称は差別的な意味合いが強いことから、ハンセン病と呼び替えられた。
ハンセン病問題は、そうした国の隔離政策に起因する。きっかけは、1907年の法律第11号「癩予防ニ関スル件」である。当時はハンセン病への適切な治療が十分ではなく、病気の進行とともに顔や手足の変形を生じることもあり、患者は偏見や差別の対象となった。戦前の日本は、病気や障害を持つ人は国の恥とされる時代でもあった。家族に迷惑をかけることを恐れ、放浪生活を送るハンセン病患者が全国に見られるようになったため、1931年には「癩予防法」が施行され、多くのハンセン病患者が社会から隔離され療養所に強制収容された。法律で療養所に収容することを定めたのである。
同じ頃、地域からハンセン病患者を一掃するために患者を療養所に入所させる「無らい県運動」が官民一体で起こる。これにより「ハンセン病は伝染力が強い」という間違った考えが広まり、偏見を助長したとされる。「あの家からは患者が出た」という噂だけで、本人ばかりか家族までが差別され地域社会から排除されてしまったのだ。戦前から各療養所においては、入所者が園内で結婚する際に、男性に断種手術することが条件とされていて、1948年には「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止し、母体の健康を保護する」ことを目的とする「優生保護法」が施行。遺伝性疾患やハンセン病等を理由とする不妊手術や中絶が認められるようになった。
隔離政策の間、ハンセン病患者や回復者は、人生の甚大な被害を意味する「人生被害」を被ることになる。入所の際には、「家族に迷惑をかけないように」と偽名を使うよう求められた。療養所内では、主に重症患者の世話や土木作業、糞尿処理等の強制労働を強いられ、反抗や逃走を試みた者は監禁室に収容された。入所者同士の結婚は認められたが、条件として男性には断種手術が強要され、妊娠した女性は強制堕胎させられた。一方で社会に残された家族も村八分やいじめ、離縁等の被害を受けた。強制隔離収容はハンセン病患者や回復者の社会基盤と人生の可能性を奪い、病気が治癒しても社会復帰ができない状況を作り出したのだ。
1996年、「らい予防法」の廃止により隔離政策がようやく終了した。しかし、全国の国立療養所入所者約5千500人の平均年齢は60代後半に達し、すでに社会復帰は難しい現状にあった。
2001年、熊本地裁が国のハンセン病政策の過ちを認め、「らい予防法は人権を著しく侵害し、違憲性はあきらか」と、国の敗訴を申し渡した。「らい予防法」を放置した国の賠償責任を認めたのである。2007年になると、療養所の入所者数は約2千900名と大幅に減少し、平均年齢は70代後半と高齢化が進んだ。生活保障や療養所の将来の在り方が検討され、全国ハンセン病療養所入所者協議会を中心に「ハンセン病療養所の将来構想をすすめる会」が発足。請願署名活動が行われ、2008 年6月に「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」(ハンセン病問題基本法)が成立した。同法は、国に医療・福祉体制の整備や社会復帰の支援、名誉回復の措置を義務付けるとともに、療養所の土地、建物、設備等を地方公共団体や地域住民等が利用できる規定を定めている。
2019年5月、全国13か所の国立ハンセン病療養所入所者は1千211人となり、平均年齢はおよそ86歳に達した。高齢化や偏見が社会復帰を妨げている状況は変わらないものの、「ハンセン病問題基本法」に基づく人権回復運動は大きく進展している。一つの象徴が、同年6月に熊本地裁が下した判決で、「ハンセン病家族訴訟」において、原告541人について国の責任を認めて賠償を命じた。隔離政策がもたらした偏見や差別について、家族に対しても国の責任を認めたのである。
同年7月、国は熊本地裁の判決を受け入れて控訴を断念。家族訴訟を巡る判決は一審で確定することとなった。報道によると、原告側は控訴断念を当然としながら「家族の尊厳回復につながる」と熊本地裁判決を高く評価している。
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